明智光秀は天海として生きてた!?その理由は何?
本能寺の変の首謀者として歴史の教科書にも載ってるのは
そう明智光秀です。
明智光秀は本能寺の変の後
山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、
落ち延びたところを
竹槍を持った農民に刺されて逝去した。
というのはとても有名な話です。
しかし、実は明智光秀は生きていて
天海と名前を変えていた。
という説が存在しているのです!
(天海というのは安土桃山時代~江戸時代の
天台宗という仏教のお坊さんです)
え?明智光秀が天海ってどういう事?
と思っているでしょうから、
なぜ明智光秀が天海として生きていた
という説があるのかまとめておきました。
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明智光秀が天海だという理由は何?
明智光秀=天海という説は
最近では漫画やゲームで広まってますが、
なぜ明智光秀=天海という説が
広まっているのでしょうか?
なのでいくつか所説を見てみましょう。
日光東照宮に明智家の家紋がある
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の
袴や建物には明智家の家紋である
桔梗紋がかたどられている
というのが明智光秀=天海の説の1つです。
ただ、この桔梗紋は他の武家の家紋にも使われており、
明智光秀=天海とするには弱いかと思います。
日光に明智平という場所がある
日光には明智平という場所があり、
この場所は天海が命名しました。
ですが、明智平は滝が見えるくらい
平たい土地ですから、
明るく平らな場所という意味で
明智平とつけられたのかもしれません。
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明智光秀と天海の筆跡が似てる
明智光秀と天海の筆跡を
テレビ番組で鑑定をしたところ、
極めて似ている筆跡である
という結果が出ました。
ですが、こちらのサイトを参照されるように
最初の筆跡鑑定の結果では
「天海は明智光秀と近しい人物では?」
という結果が出ています。
春日局との繋がり
徳川家光を幼少時代育てていた
春日局(かすがのつぼね)は
明智光秀の甥である斉藤利三の娘です。
また、春日局は天海と会った時に
「お久しぶりです」と答えたことも
明智光秀=天海の説にもなってます。
ですが、春日局が生まれたのは1579年で、
明智光秀が死んだのは1582年です。
この間に出会っていたとしても
春日局はまだ3歳ですから
明智光秀のことを覚えているのか
正直疑問が残っていますね。
明智光秀=天海まとめ
明智光秀=天海という説の根拠は
様々なものが存在しますが、
いずれにしても少し無理があるかと思います。
私としては明智光秀=天海の説があるおかげで
後世にていろいろな解釈が生まれており、
漫画やゲームなどの創作の幅が広がっているのかな?
という風に思っていますね。
明智光秀=天海の説はまだまだ解明されてませんが、
果たして真実が明らかになる日はあるのでしょうか?
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