宮本武蔵と佐々木小次郎は巌流島で戦って無かった!?
最近宮本武蔵を主役にしたドラマが
テレビ朝日で放送されて注目を浴びていましたね。
宮本武蔵の戦いの中でも特に有名なのが
佐々木小次郎との巌流島での戦いですね。
しかし、あまりにも有名な巌流島での戦いですが、
宮本武蔵と佐々木小次郎は実は
巌流島で戦って無かったのでは?
と言われているんですね。
なぜ、宮本武蔵と佐々木小次郎が
本当は戦ってなかったと言われてるかについて
解説をしていこうと思います。
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宮本武蔵と佐々木小次郎が戦ってない理由とは?
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島での戦いは
とても有名ですが、
巌流島での戦いは実は、
書物によっては詳細が違ってるんですね。
その具体的な例を挙げてみましょう。
巌流島の戦いの年の違い
宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った
巌流島の戦いですが、
実は書物によって戦ったのがいつか
バラバラなんですね。
どうバラバラなのかといいますと、
まず、巌流島での戦いの時期を書いた関連書物で
一番古いとされている江海風帆草では、
宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で戦ったのは
慶長6年(1601年)であるとされてます。
宮本武蔵は1584年生まれですので、
この時は17歳という年齢になりますね。
しかし、丹治峯均筆記には
巌流島の戦いは宮本武蔵が19歳の時の戦い
と書かれているとのことです。
19歳の時に巌流島で戦ったのなら、
戦った年は1603年という事になりますね。
これでは先ほどの江海風帆草と年齢が合いませんね。
更に、宮本武蔵関連の有名な書物として、
熊本藩の二天一流に伝わってる武蔵の伝記である
「武公伝」、「二天記」では1612年であるとされています。
ちなみにこの戦いは宮本武蔵が29歳の時の戦いと言われてます。
武蔵が生まれた年齢と合わない気がしますが、
この際は気にしないことにしておきましょう。
宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った年は
このように書物によってバラバラなのだな
という風に感じますね。
巌流島の戦いの詳細の違い
宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った
巌流島の戦いは書物によって
戦いの詳細が違っているんですね。
まず、巌流島のエピソードで一番有名な
宮本武蔵が戦いに遅刻したという話ですが、
これは先ほども挙げました「二天記」
に書かれていた内容ですね。
実はこのエピソードは実はフィクションであり、
宮本武蔵は遅刻していなかったと言われてます。
遅刻してないと言われる理由は、
二天記よりも前に書かれている宮本武蔵関連書物に
宮本武蔵が遅刻したことが書いて無いから
と言われていますね。
ちなみに他の宮本武蔵の書物でも
「沼田家記」では宮本武蔵が佐々木小次郎を倒した後、
武蔵の弟子達が数人がかりで小次郎に止めをさした
という風に書かれていますし、
「西遊雑記」では宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いに
弟子が数人加勢し、佐々木小次郎を倒した
という記述があります。
このように巌流島の戦いを書いた書物でも
内容によっては武蔵一人だったり、
弟子と複数人だったりとバラバラなのです。
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佐々木小次郎は実在してなかった!?
巌流島で戦った年代や戦いの詳細がバラバラなだけでは、
流石に巌流島で戦ってないとするには
弱いかなとは思いますね。
ですのでもう一つの説として
宮本武蔵が戦った相手である佐々木小次郎が
実は存在しなかったのではないか!?
ということについて触れますね。
宮本武蔵のライバルとして有名な
佐々木小次郎ですが、その出自には
結構謎が多いんですよね。
佐々木小次郎の年齢
佐々木小次郎の年齢は「二天記」では
18歳であるとされていますが、
佐々木小次郎の師匠は冨田勢源である
とされています。
ちなみにこの人物は1523年生まれで
いつ死んだかは不明ですが、
巌流島の決闘を行う頃には無くなってると思われます。
そう考えると、少なくとも佐々木小次郎の年齢は
18歳というのはありえないと考えれますね。
また、小次郎は老人であったという説もあるそうです。
他に小次郎が架空の人物であると言われているのは、
宮本武蔵が書いた書物である「五輪書」に
佐々木小次郎が登場しないからという理由もあります。
宮本武蔵が戦った相手が全部書かれてる訳ではないとはいえ、
かなり有名な戦いなのに全く書かれないなんて事が
あり得るのかなぁと私は思いますね。
(ただ単に武蔵にとって大した戦いでないだけなのかもですが)
佐々木小次郎が実は実在しない人物なのでは?
という理由もあって、
宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で実は戦って無かったのでは?
と言う風に言われているわけですね。
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